書評1999年7-12月分

1999年7月分

 

田中拓道(北海道大学大学院法学研究科博士課程、フランス政治思想史、takjit@juris.hokudai.ac.jp

・坂上孝『近代的統治の誕生─人口・世論・家族─』(岩波書店、1999年)

 フランス歴史学が、「事件」としての政治史から社会史へと重点を移し、表象・文化・心性等を対象とした歴史研究を産出するようになって久しい。同時に、このような対象を再び政治権力の行使という観点と結びつける方途の探求も進んでいる。本書は、日本における19世紀フランス政治史研究を担ってきた筆者が、このような動向に沿う形で、主要な内外の二次文献を踏まえつつ、18世紀後半から19世紀前半における「社会」の領域に浸透する「統治技術」の確立過程を明快に示した秀作である。

 本書には、幾つかの異なる思想が、同時に前提として用いられている。一つは、グラムシにおける「ヘゲモニー」概念であり、上記の時期は「ブルジョア・ヘゲモニーの確立期」としてとらえられる。二つ目は、アルチュセールの「イデオロギー装置としての国家」という概念。三つめは、「規律・監視」「知と権力」「パナプティコン」といったフーコーの概念装置。以上のような枠組みによりつつ、具体的には世論・家族・人口統計・教育・公的扶助・警察という対象において、社会を統治するための新しいテクノロジーがいかに発明され、確立していったのかが明らかにされる。

 本書の提起する歴史像は、大筋において反論の余地のないものであるし、個々の論点もきわめて興味深い。このような成果を受けて、次に探求されるべきは、例えば次のような点だろう。この時期、「ブルジョア」とはいかなる歴史的対象としてとらえればよいのか(グラムシ、アルチュセール、フーコーの違い)。 このような歴史像と、他方における「民主主義」「自由主義」「共和主義」「社会主義」といった19世紀諸思想は、いかなる関係にあるか。知と統治技術の結びつきを、思想的次元に遡って検討することは、ここで用いられている考察枠組み自体の反省化にもつながるに違いない。

 

岡崎晴輝 1968年生 政治理論専攻 学術博士(国際基督教大学) 放送大学非常勤講師 aktiv@aqua.ocn.ne.jp

・石田雄『一語の辞典 自治』(三省堂、1998年)。

 日本における「自治」の概念小史。我々は「自治」の概念を「地方」と結びつけやすい(「地方自治」)。しかし、著者が描きだしているように、自由民権運動では「自治」の概念はむしろ「自由」と結びついていた。この「自由自治」の概念は、英米流の self-government としての「自治」の概念であり、中央政府の「自治」も当然に含まれている。しかし、山県有朋や井上毅らは、こうした英米流の「中央自治」を退け、ドイツ流の Selbstverwaltung としての「地方行政」を採用していったのである。著者は、こうした「地方自治」の含意が日本国憲法下でも変わらなかったこと、しかしその後の「革新自治体」「市民自治」への運動のなかで覆されつつあることを描きだし、最後に「自主政治」(ノーマン)を展望することで本書を結んでいる。小著ではあるが、学問的厳密性と実践的問題関心の優れた結合の好例。

 

北海道大学法学研究科(行政学):雪に埋もれた象牙の塔で朽ち果てく狂人(ペンネーム)kosuke@juris.hokudai.ac.jp

・高根正昭『創造の方法学』講談社現代新書553(1979年)

・苅谷剛彦『知的複眼思考法』講談社(1996年)

 今回も社会科学(厳密には社会学)方法論の書物を採りあげる。

 著者は共に社会学者でアメリカで博士号を取得しており、双方の書ともに筆者みずからの留学体験を通して方法論の重要性を説いている。出版に関して両書には17年もの開きがあるものの、そこで示されている見解がほぼ同様のものであるのは興味深い。他方、17年の歳月を経てもわが国のアカデミズムに不足してるものが何ら変わりがないことに愕然とする。高根氏は以下の様に説く。「知的生産を求めずに、外国の学会の成果を紹介する限り方法論は不要であろう。」(P26)「方法論とは外国の翻訳ではない、『自分自身の文章を書くための必要最低限のルール』である。」(P195)

 他方、わが国の方法論の書物の多くは知識や情報の獲得についてか、発想法や着想法の本であった。安易なハウツー本(超ナントカ法とか?)がはびこるわが国の出版状況に於いては、とかく方法論に対するバイアスが強く、その重要性については軽視されがちであった。同時に、全体的視野を失い、枝葉末節にこだわる方法論亡者の群もいた。そして、この傾向はアカデミズムに身を置く者ほど強かったのではないだろうか。

 双方の書物について比較して紹介しよう。両書は共に科学的な研究手法の取得を説いている。すなわち抽象的な理論と経験的現実世界を結びつけること、問題を設定して因果関係を特定することの重要性である。

 双方とも口語調であるが高根氏の書が、講壇から学生に語るスタイルなのに対して、苅谷氏の書は、ゼミ教室でざっくばらんに語るスタイルである。科学的研究の手法を説明する例示として、高根氏がウェバーの『プロテスタンティズムの倫理』やデュルケーム『自殺論』は勿論のこと、ミヘルスやトックビィルの業績そしてロバート・ベラ、ラザーズフェルド等との交流を用いているのに対して、苅谷氏の方は学歴社会や非行等、身近な素材を用いている。高根氏の方が新書ながらやや専門的内容にまで踏み込んでいるのに対して、苅谷氏の方が方法論の3つの基礎=「読み、書き、計算(統計)」の具体的な身に付け方・トレーニング方法について重きを置いている。特に苅谷氏の提唱する読書のコツ(P55・60)、非難ではなく建設的批判を身につけること(P82)、考えたことを必ず紙に書くこと、抽象的概念を極力用いず議論を展開すること(P162)等のポイントは、我々が書評を展開する際にも気をつけねばならないことである。

 また高根氏は、以前紹介した佐藤郁哉氏の書よりも参加観察(フィールドワーク)に基づく事例研究について、その特徴と限界を簡潔に記している(P157〜)。なお高根氏の書の方は既に絶版と思われるが、評者の経験上古本屋の軒先で比較的容易に入手できる。双方とも大学入学者向けであるが、研究に従事する者が繰り返し読むこととなる本であろう。     以上

 

 

1999年8月分

 

田中拓道(北海道大学大学院法学研究科博士課程、フランス政治思想史、takjit@juris.hokudai.ac.jp

・橋本努『社会科学の人間学』(勁草書房、1999年)

 日本の学術世界の特徴は、相変わらず「翻訳文化」という点にあるように思われる。アメリカのみならず、西欧も含めた最新の議論潮流が、次々と翻訳・紹介され、流入している。この事態は、一面においては、幅広い議論を踏まえた真に独創的な業績を生み出す素地を、日本の学者にもたらしているとも言える。しかし他面においては、独創的な業績を生み出す学者よりも、海外の議論に通じている学者の方が、高く評価されるという傾向を持続させている。そしてそのことによって、多くの学者は、自己の思想を鍛える以前の段階である、海外の議論の「消化」「追跡」に、ほとんどのエネルギーを費やすことになってしまっているように思われる。

 本書は、このうち前者の可能性を最大限に発揮した業績である。すなわち、ウェーバー研究を中心とした膨大な量の先行思想を踏まえつつも、論述は一貫して自らのオリジナルな思想の展開に向けられている。出発点は、ウェーバーおよび日本のウェーバー研究における人格・学問論をもとに、現代社会において社会科学の営みが、いかなる形で「自由社会」を担う優れた「人格」を陶冶しうるのか、という問題設定である。そこで既存の議論が近代主体論・決断主義という形で類型化された後、それに対抗する筆者の〈問題主体〉や「成長論的主体」という新たな人格像が提起される。

 本書の魅力と特徴は、個々の概念の「類型化」という方法を一貫して用い、そこから論理的に帰結する点を指摘することによって、既存の理念の限界や矛盾を明快に行っているところにある。さらに「闘争」や「運命」といった概念への社会理論的観点からする着目、既存の概念の批判の後に必ずオルタナティヴを提示するという議論の作法、それらを一つの方向にまとめあげる構想力、のそれぞれにも、読者を引きつける大きな魅力がある。

 ここで評者が感じた疑問を二つだけ挙げておきたい。両者は本書のキーコンセプトである「成長」という概念に関わる。

 第一は、「成長」という概念の内実をいかに規定するか、という問題である。筆者は「成長」を、より正確には「成長の基準の成長」という「メタ成長」である、としている。しかしこの規定に従えば、「基準の成長」→「その成長の基準」→「その基準の成長」…という形で無限背信に陥ってしまい、議論の手がかりを失ってしまうだろう。評者の考えでは、「成長」が単なる「変化」と異なるためには、次の二つのどちらかの可能性しかありえない。何らかの完成型を理念型として設定した上で、そこから「成長」への意味づけを行うか、ポパーの議論に見られるように、実験や反証によって、「成長」概念の境界(「成長ではない」事象)が、誰の目にも明らかな形で指摘されうる場合か、のいずれかである。しかし本書では、前者は「発展」として「成長」と区分され、また成長概念の「多元化・複殖化」が語られることによって、後者の場合が当てはまるとも思われない。そうであれば「成長」概念とは、相互の拮抗・競争に伴う緊張感といった、具体的な経験に基づくある種の心理的な状態を示した概念として解釈されてしまうのではないだろうか。

 第二は、「成長」概念の社会レベルと個人レベルの相違についてである。学者が日々の研究生活で直面しているように、社会的な知の成長が、個人の知的・人格的成長と調和することは希であり、むしろ両者は矛盾・葛藤関係にあると言って良い。教養人たるべきか、専門家に徹すべきか、といった葛藤は、その一例であろう。本書では、問題設定の性格上、社会の「成長」という観点から個人の人格的成長が語られ、社会と個人の葛藤は、前面に出てきていないように思われる。しかし専門研究に限定せず、「学問」を広く「学びと思索」の営みととらえた場合、個人の人生にとってそれがいかなる意味を持つのか、社会的な知の成長に貢献しない個人の知的・学問的成長をいかに意味づけるのか、といった問題は、残されることになる。こうした観点から、19世紀ドイツからウェーバーを経て現代に至るまで展開されてきた人文主義的学問論を解釈し直し、本書の人格・学問論に対抗する議論を抽出することが可能なのではないか。それは、本書の問題提起を引き継ぐことにもつながるはずである。

 

雪に埋もれている札幌も今年はクソ暑かった!(ペンネーム)

北海道大学大学院法学研究科(行政学専攻) E-mail:kosuke@juris.hokudai.ac.jp

・立花隆『ぼくはこんな本を読んできた−立花式読書論、読書術、書斎論−』文芸春秋社1995年

 本書はサブタイトルの如く立花隆が自らの読書スタイル、書評観、仕事風景について語ったものである。また、妹尾河童による「ネコビル」の紹介(立花氏の仕事場)や、立花氏の秘書公募顛末記等のエッセイも含まれている。様々な雑誌上での対談やエッセイで構成された雑多な本である。

 彼において読書とは、専門家へのインタビューや彼らとの論争の為に必要不可欠なものだとする。彼は以下の様に答える。「最先端の研究者に話を聞きに行くのは準備が大変なんです。専門家は、質問によってその人がどれだけの基礎知識を持っているのかをすぐに見抜くからです。質問が浅く表層的なものだと、専門家は呆れるほどいい加減な答えしかないものです」。そこで、共産党研究関係だけでもスライダックス4つ分の本や資料を収集し、これらの仕事と同時並行で読み込んだそうである。この様な、彼にとって書評欄とは、本に関する最小限の情報を知るためのもので良く、一般の書評欄は内容が詳しく紹介され、しかも本の評価を巡るごたくが多すぎると指摘する。また書評を展開する際には内容のみならず、編集や造本及び紙質にまで注目するべきことを説いている。

 ところで、立花氏の仕事は「他人のやっている生業を調べて、分かり易く書く」という作業である。彼の仕事は、全て個人の労力でなされるもので、基礎的な勉強から始めてインタビューを行い、原稿を書き終えるまでに数年もかかるとする。その中には、内部の人間では公にできない、しかしその事に倫理的な葛藤を抱えている関係者に代わり問題を告発提起するというマス・メディア本来の役割も含まれている。故に、彼は研究者ではなくあくまでジャーナリストである。しかし、商業化が進行し、誰のための「第4の権力」かが見失われつつある既存のマス・メディアにおいては、彼のような仕事はだんだん成りたたなくなっていると思われる(勿論、立花氏でさえ、既存の商業ジャーナリズムの土俵で仕事をしているため、彼の仕事にも一定の限界があると思われる)

 本書の読書術は、あくまで彼のジャーナリストしての読書論であって、私的な読書論ではない。立花式読書術とこれに裏付けられた数々の作品は、彼に内在する異常なまでの知的欲求「知りたいから知りたいんだ」という衝動に由来するもので、あくまで彼の職人的素養によって成り立つものである。本書は読者が自らの読書術を身につけるために読むものではなく、他者からの批判に耐えうるジャーナリズムが如何なる背景の下に成立するのかを知るために読むべきだろう。

 

・外交政策決定要因研究会編『日本の外交政策決定要因』PHP研究所1999年

  本書は55年体制以後の日本の外交政策決定要因とその過程が、それ以前と比べてどの様に変容したのかを考察したものである。小沢一郎と自民党政策調査会に焦点を当てたアクターアプローチと、「安全保障政策」「経済・通商政策」「経済支援政策」の3項目によるイシュー・アプローチの2部で構成されている。

 一般に政治学における政策過程研究は、その中心を個々のアクターの影響力分析に置くが、本書の記述において影響力という概念はあまりに見られず、その中心は題名の如く社会的「要因」の抽出にあることから、政治学的色彩は薄い。現実の動向に関する調査分析を主たる任務とする民間シンクタンクにより企画された書であるゆえに、事実の解明・描写と分析を中心とした調査報告書として読むべきだろう。

 勿論、本書はディスクリプションとして多いに楽しめるものであり、その水準からして以下の3分類に整理可能と思われる。第1は、文献注や資料の拠出箇所の明示等、論文を執筆する上で、最低限守られるべき作法を満たし、論理構成も明解なもの(具体的には第1章、第2章、第4章及び第11章の論文)。第2は、事実の経過を詳細に叙述したもの(第5章)。第3は、時系列に沿って主要アクター間の関係や社会環境の変容を分析したもの(第10章、第13章)である。

 しかし第1の部類に属するものを除いて、本書には以下に示すような問題点がある。まず、個々のアジャンダに影響を与えたとして抽出される要因が多様であり、要因相互間の影響関係が曖昧であること。次に、ミクロな政策決定過程をメゾ・レベルの変数を介在させず、直ちにマクロな社会環境の変化で説明することに抵抗を感じざるをえないこと。更に文献注や資料の拠出箇所が曖昧なものもあり、論述内容において、その正統性が必ずしも担保されないこと。最後に、政策過程に変容がみられたことを当然の前提として、55年体制下における政策過程との比較を明確に示していないものが少なくないことである。

 最もこの様な問題点が指摘される論文はまだ良い方で、本書の命題・目的を無視し、現状認識、論理展開、分析概念のいずれにおいても稚拙な文章が本書の一角を占めていることに落胆しざるを得ない。編者は今までの資料中心のアプローチでは現在進行形の政策過程の分析は限界があることから、現場の人間に協力を依頼したと冒頭で述べているが、論文の作法を身につけぬ者に対して、執筆までの協力を依頼する必要はなかったと思われる。最も「民族性」やら「おかみ」で全てを語るかような論文を「異色」の形容の下に収録しざるを得なかった編者の苦労には、多いに敬意を表したい。本書は約450頁・定価2700円であるが、低水準の論文を削除して約2000円程で販売するべきだったろう。以上

 

評者: 福田 宏 (北海道大法学部助手、国民形成過程における体操運動) hfukuda@juris.hokudai.ac.jp

・マーレー・エーデルマン、法貴良一訳『政治の象徴作用』(中央大学出版部、1998年)

 民主主義の世の中においては、選挙によって選ばれた政治家たちが公共利益の実現を求めて活動している、というのが一般的な政治の「常識」である。ところが、この「常識」はあくまで虚構に過ぎず、実際には、政治は象徴がうごめく世界でしかないとエーデルマンは主張する。

 例としてフーヴァーと F.ルーズヴェルトのリーダーシップを比較してみることにしよう(124-125頁参照)。よく指摘されるように、ニュー・ディール政策の多くはフーヴァー政権下においてすでに開始されていたのであった。だが、大恐慌の深刻さを強調し、自分がその危機に正面から立ち向かっているという点を印象づけたのはルーズヴェルトであった。その結果、危機の存在を否定したフーヴァーは無能の烙印を押され、選挙であっさりとルーズヴェルトに負けてしまったのである。ここで重要であったのは、実際に行われている政策の中身ではなく、政治というドラマの演出方法なのであった。

 ドラマトゥルギーとしての政治を理解する第一のポイントは言語である。人間関係を媒介する言語は所与のものとして存在するのではなく、社会の中において意味が付与され、構成されていくものである。したがって、言語は本質的に曖昧なものであり、それに頼って生きざるを得ない人間は必然的に不安定な状態に置かれることとなる。社会の中で生きる以上、人間は不安を持たざるを得ない。これが本書における第二のポイントとなる。

 どんな社会においても、個人の不安感を和らげる装置、すなわち儀式が制度化されている。これは未開社会においても近代的な社会においても変わることはない。人々は、呪術的な儀礼、決まり切ったスローガンに繰り返し接することによって自分の拠り所を見いだし、安堵感を獲得するのだ。だが、心地よい政治的言辞の中に安住することによって、人々は、自らの認識枠組みを固定化し、行動を制約する檻に自分から入り込んでいくことにもなる。一般大衆が、大げさなスローガンを好みつつも、実際には体制順応的・保守的な傾向を持つというのはこの点から理解できる。

 以上が本書の内容である。原書の第一版が1964年に出されたことを考えると、著者の議論が『自由からの逃走』(フロム)に代表されるようなナチズム後の大衆社会論を色濃く反映しているのは当然のことであろう。だが、現在の観点から見れば、「不安」という一語で大衆を一枚岩的に捉えるのはやや乱暴に見えなくもない。本書はあくまでエリートと大衆との関係に的を絞った考察であるが、大衆内部におけるシンボル操作の機能についても検証する必要があろう。エリートがシンボルを発明し、大衆がそれに追随するという単純な構図では、社会の実態は見えてこないからである。その点では、ボドナーの『鎮魂と祝祭のアメリカ --- 歴史の記憶と愛国主義』(青木書店、1997年)は歴史学の側面からエーデルマンの議論を発展させた一例として読めなくもない。ボドナー自身はエーデルマンに対する言及をしていないのであるが。

 また、本書を読んでいて思い浮かんだのは、最近の国旗・国歌をめぐる議論であった。そもそも、日の丸や君が代は単なる記号であり、それ自体が何らかの意味を持つわけではない。明治維新以降、そうした記号が初めて国民的な意味を獲得し、ある時には忠誠の対象に、ある時には憎悪の対象へと変容してきたのであった。その点に着目すれば、我々はこうしたシンボルをもっと相対化して捉えることができるはずである。私見ではあるが、国民国家的シンボルを脱構築する視角 --- 象徴政治学のまなざし--- が「市民」の間で熟していれば、今ごろになって国旗や国歌のようなものに国家権力が固執し、法案として採択してしまうようなことはなかったように思われる。その意味では、若干古くさいとはいえ、エーデルマンが提起した象徴政治学は一読に値する議論と言えよう。

 

1999年9月分

 

岡崎晴輝 1968年生 政治理論専攻 学術博士(国際基督教大学) 放送大学非常勤講師 aktiv@aqua.ocn.ne.jp

・真渕勝・久米郁男・北山俊哉『はじめて出会う政治学──わかる楽しさ 学ぶ喜び』(有斐閣、1997年)

・カナダ・オンタリオ州教育省編『メディア・リテラシー──マスメディアを読み解く』FCT(市民のテレビの会)訳(リベルタ出版、1992年)

 近年、政治学教育への関心が高まっている(cf. 阿部斉・内田満「今日の大学における政治学教育──『現代政治学小辞典 新版』を編集して」上下、『書斎の窓』第486号、1999年7・8月;第487号、1999年9月)。こうしたなか評判になっているのが、有斐閣のアルマ・シリーズの『はじめて出会う政治学』である。本書は、学生が近づきやすいように、車検制度や携帯電話などの身近な話題を導入部に据えている。日頃、政治学教科書に不満を感じている者の一人として、そうした著者達の試みに賛成するところも少なくない。しかし同時に、違和感もある。執筆者の一人・真渕教授は、大嶽教授・村松教授との鼎談「政治学の教科書を読む──『はじめて出会う政治学』を中心として」(上、『書斎の窓』第468号、1997年10月;下、第469号、1997年11月)において、本書で「いちばん力を入れた」のは、導入部の「つかみ」であると述べている(下、3頁)。しかし、この「つかみ」という発想に、本書の最大の難点があるのではないのだろうか。厳しく言えば、著者達は「テクニック」を工夫することによって、学生の興味を惹こうとしている。しかし、政治学の「知」それ自体を反省しているわけでも、その再編を試みているわけでもない。たとえるならば、潰れそうな喫茶店のマスターが、客を獲得するために、コーヒーの味を美味しくすることに精をだすのではなく、喫茶店の建物を見栄えよくすることに精をだしているようなものである。これでは、問題の解決にはならない。今日の政治学教育の危機を乗り越えるために必要なのは、テクニックの工夫であるよりも、政治学者のための政治学(政治の「観察者」の視座からの政治学)を、市民のための政治学(政治の「実践者」の視座からの政治学)へと再編することではないのだろか。たしかに、政治制度や政治過程を教えることも、大切には違いない。しかし、学生の市民としての政治的成熟に寄与し、しかも学生の興味を惹くのは、以下のような問題設定なのではないのだろうか。すなわち、我々が日々直面する「問題」を「解決」するには、いかなる「方法」が必要なのか。市民としての政治的成熟に寄与する「実践学」としての政治学。『メディア・リテラシー──マスメディアを読み解く』は、そうした実践的な政治学のイメージを与えてくれるであろう。

 

1999年10月分

 

岡崎晴輝 1968年生 政治理論専攻 学術博士(国際基督教大学) 放送大学非常勤講師 aktiv@aqua.ocn.ne.jp

・西尾勝『未完の分権改革──霞が関官僚と格闘した1300日』(岩波書店、1999年)

 今年、地方分権一括法が成立し、遂に「機関委任事務」は廃止されるにいたった。西尾勝氏は、改めていうまでもなく、地方分権推進委員会の中心的メンバーの一人である。本書は、主として同委員会在任中におこなわれた、六つの講演を収めている。これらの講演は、第一級の同時代的史料であり、我々は、個々の制度改革の背後に、生々しい「格闘」があったことを具体的に知ることができる。私の場合、本書を読むことによって、例の分厚い『地方分権推進計画』が、実に面白い読み物へと姿をかえてしまったのである。──今後、誰かが、この大改革について実証的研究をするであろうが、その際、西尾勝という「章」、少なくとも「節」を置かないわけにはいかないだろう。たしかに、彼がいなかったとしても、この改革は、早晩実現していたに違いない。しかし、彼がいなかったとしたなら、はたしてこの時期に実現していたであろうか。西尾勝氏の分権改革に傾けた情熱、エネルギー、そしてリアリズム。本書には、いろいろ学ぶべき点が多い。

 

評者: 福田 宏 (北海道大学法学部助手、国民形成過程における体操運動) hfukuda@juris.hokudai.ac.jp

http://www.hello.co.jp/~hiroshifukuda/index.htm

・ノルベルト・エリアス, エリック・ダニング著. 大平 章訳『スポーツと文明化--- 興奮の探求』. 叢書ウニベルシタス(492). (法政大学出版局. 1995年)

 スポーツは「文明社会」における暴力のはけ口として機能している。これが、本書で示されている極めて刺激的な仮説である。

 産業社会の発展過程においては、分業と相互依存の発生により、近代以前に比して抑制された人間関係が必要となる。ナショナルな規模で展開される近代的共同体においては、人と人との関係は「機能的」となり、原始的な感情を発露させる回路は抑えられてしまうが故に、その分、興奮を得たいという欲求も増大する。その不満を解消するべく登場したのが、スポーツという娯楽であった。もちろん、スポーツそれ自体においても暴力は制限されたものとして立ち現れる。ボクシングなどの現在の格闘技を見れば明らかなように、階級の区別や反則技の設定によって、暴力の発生が最小限のものとなるようにコントロールされているのだ。つまり、社会の「文明化=暴力の抑制」と密接に結びついて誕生した近代的意味でのスポーツには、それ自体、暴力を抑制する「文明化」への傾向が内包されているのである。いずれにせよ、我々は、スポーツにおける限定的な興奮を楽しむことによって、社会における抑制と緊張によって被ったストレスを発散させ、精神的な均衡を保っているということになる。

 スポーツにおける「暴力の抑制」を示す事例として、狐狩りを挙げることができよう(pp.231ff.)。18世紀のイギリスにおいては、狐狩りはジェントルマンの娯楽として特殊な形で発展したのであった。ジェントルマンは、食料を確保する手段としてではなく、狐を追跡する一種のゲームとして狩りを楽しむようになったのである。そこには様々なルールが存在しており、銃を使って狐を殺すという「野蛮」な方法ではなく、猟犬によって狐を捕まえる --- つまり、自らは手を下さない --- 「紳士的」な方法が正当だとされていた。限られた人々のスポーツとして発達した狐狩りにおいて、ジェントルマンは、特権階級としての自らのステータスを確認し、さらには、規範に従って暴力を行使するという限定的な興奮を味わっていたのである。

 また、イギリスにおけるフットボールの発達も興味深い(pp.253ff.)。中世のイギリスにおいて見られた民衆のフットボールは、今の時代では考えられないぐらい「野蛮」なものであった。ゲームにおいては、ボールだけでなく相手を攻撃するための棒も使われ、死傷者が出ることもしばしばであった。競技場の内と外、選手と観客との境界は曖昧であり、通りがかりの人間が試合に参加することもあれば、傍観を決め込んでいる観客が突然、選手に殴りかかられることもあった。ところが、19世紀に入ると、そのような暴力的なフットボールがパブリック・スクールの生徒によって受け入れられ、ルールによって制度化された「非暴力的」娯楽へと改造されていったのである。この点については、ダニング、シャド共著の『ラグビーとイギリス人 --- ラグビーフットボール発達の社会学的研究』(ベースボール・マガジン社、1983年)において、詳しく扱われている。

 このようにスポーツの観察を通して見えてくる「文明化=暴力の抑制」の議論からは、次の論点が導き出される。

 一つは、フーコーによって提示された「規律化される身体」との関係である。『監獄の誕生』において示されたように、人間の身体は、権力によって管理される身体と化したのであった。近代的な監獄、学校、病院といった諸制度により、人々の身体は監視される対象となり、「上から」規律化される存在へと変容したのである。これに対し、エリアスによって提示された「暴力の抑制」は、もっぱら「市民」の側から、すなわち「下から」発生する現象として捉えられている。彼が想定している社会の「文明化」は国家権力によって「上から」行われるものではない。彼の主張する「暴力の抑制」は、相互依存の進展によって緊密化する人間関係に見合う形で「自然発生的」に生じるのだ。近代社会における「身体の規律化」を考える時、フーコーとエリアスの議論は、どちらも欠くことのできない相互補完的なものとして位置づけられよう。

 もう一つの問題は、「文明化」によって暴力が本当に抑制されるのか、という点である。「文明化」の最も進んだはずの20世紀が、実際には、最も大量殺戮が行われた時代でもあったことを考えると、多木の指摘するように、エリアスの言う「暴力の抑制」は「半分しか当たっていない」のかもしれない(『戦争論』岩波新書、1999年)。だが、エリアス自身がイギリスへの亡命を余儀なくされたユダヤ系ドイツ人であり、彼の主著である『文明化の過程』が1939年に発表されたことを考えると、「暴力の抑制」という発想が単純に机の上だけの思考によって産み出されたとは言えまい。それでは、彼はナチズムのような現象をどのように説明しているのだろうか。

 本書において、彼は、古代ギリシャにおいて見られた戦争での残虐行為、あるいは古代オリンピアの競技で許容されていた肉体的暴力に言及している(pp.195ff.)。当時においては、今の規準をはるかに越えたレベルの暴力が許容されていたのに対し、現在においては、暴力そのものを防止することはできないにせよ、少なくとも、それを「野蛮」であるとか「不作法」であると見なす感覚が育ってきている。ナチスが犯した行為にしても、我々はそれを止めることはできなかったが、すくなくともそれを嫌悪し、批判する感覚を持っていることは事実である。その意味では、我々は、以前よりも「文明化」された社会に生きていると言えるのではなかろうか。このようにエリアスは主張している。

 しかしながら、今世紀において頻発した戦争とそれに付随した数々の暴力行為を、「文明化過程」からはみ出した単なる「逸脱」と片づけてしまっていいのだろうか。この点については、まだまだ議論を深めていく余地があるだろう。

 少々長い書評となってしまったが、多方面の研究分野にまたがる本書には、議論すべき点がまだまだたくさん残されているように思われる。「スポーツ社会学の古典」だけにしておくにはもったいない文献と言えよう。

 

田中拓道(北海道大学大学院法学研究科博士課程、フランス政治思想史、takjit@juris.hokudai.ac.jp

・番外編 ─ Magazine litteraire, no.380 (Octobre 1999)における特集「政治哲学の刷新」の紹介

 今年10月に、Alain Renautほかの編集によって、Histoire de laphilosophie politique(『政治哲学史』)、Calmann-Levy, 1999, 全5巻の大著が出版された(書評の例として、本誌のほかLe Monde 11/29書評欄の特集を参照)。これを契機に、70年代ロールズ以降の「政治哲学の復権」を、フランスの視点から特集したのがこの号の内容である。有益な特集だったが、すでに二次情報である雑誌の内容を「書評」するのも作法に反するため、「紹介」にとどめる。

 まず、70年以降の「政治哲学の基本書」には、次のようなリストが挙げられる。

1971: ロールズ『正義論』; 1972: ドゥルーズ、ガタリ『アンチ・オイディプス』; 1973: ハイエク『権利・立法・自由』; 1974: ノズィック『アナーキー・国家・ユートピア』; 1975: フーコー『監視と処罰』; 1975: カストリアディス『社会の仮想的制度(L'institution imaginaire de la societe)』; 1975: ポコック『マキャヴェリアン・モメント』; 1978: フュレ『フランス革命を考える』; 1981: マッキンタイア『美徳なき時代(Afrer Virture)』; 1982: サンデル『自由主義と正義の限界』; 1983: ウァルツァー『正義の領分』; 1985: マルセル・ゴーシェ『世界の脱宗教化(Le desenchantement du monde)』; 1986: クロード・ルフォール『政治的なるものについての試論、19-20世紀(Essais sur le politique 19e-20e siecles)』; 1992: ハーバマス『法とデモクラシー』; 1992: チャールズ・テイラー『マルチカルチュラリズム』.

 一方、20世紀の重要な政治哲学者として、ウェーバー、レオ・シュトラウス、サルトル、アルチュセール、ハンナ・アレント、フーコー、ハーバマス、ルフォール、ロールズ、ポール・リクール、マルセル・ゴーシェ、アントニー・ギデンズについて、各々の専門家による紹介・分析が行われている。

 以上に見られるように、1. アメリカにおけるリベラリズム・コミュニタリアニズム論争の強い影響、2. ドゥルーズ、ガタリ、フーコーといったいわゆる「ポスト・モダニスト」だけでなく、カストリアディス、ルフォール、ゴーシェといった、反コミュニズム、反全体主義の論陣を張ってきた思想潮流の並立状況、3. 一般に日本では社会学者(ギデンズ)、哲学者(サルトル、リクール)、歴史学者(フュレ)として扱われがちな論者が重視されている点、などが特徴として挙げられようか。以上は実際の思想状況からしても、大きくずれた選択ではないだろうが、レヴィナスやレイモン・アロンの名が含まれても良かったように思われる。

 最後に、現代フランス政治哲学の議論を担う人々として囲み記事で紹介されているのが

Philippe de Lara ; Pierre Hassner ; Luc Ferry ; Myriam Revault d'Allonnes ; Pascal Bruckner ; Genevieve Fraisse ; Pierre Rosanvallon ; Etienne Balibar ; Luc Boltanski ; Evelyne Pisier ; Bernard-Henri Levy ; Blandine Kriegel ; Pierre Nora ; Michel Troper; Jean Claude Guillebaud ; Christian Delacampagne ; Yves-Charles Zarka

の各氏。

 

1999年11月分

 

北海道大学大学院法学研究科博士課程(西洋政治史)

川嶋 周一(kswith@juris.hokudai.ac.jp

・サスキア・サッセン(伊豫谷登士翁訳) 『グローバリゼーションの時代』(平凡社、1999)《第3章を中心に》

 サッセンは移民を軸として国家主権の変容と国際政治経済体制の構造変化を論じている。中でもサッセンの主張のコアは、移民に関し国家主権とは別個の論理である国際人権レジームが存在しこの二つの論理は相互に作用しかつ緊張関係を持つが、国際人権レジームには固有の権力と正当性が付与されている、という点であろう[pp130f]。

 このようなサッセンの主張、たとえば、移民は従来の国家主権理論を崩壊させる可能性を秘めているとしながらも[p133]、また人権の論理が国民国家の枠組みを越えた状況により国家の正統性の基盤が再定義される[p168]としながらも、にもかかわらず国家は主権を放棄したわけでもなく、また主権国家システムが崩壊したわけでもない。いわゆる主権国家システムにおいて国家が有している(もしくはその所有が正統化されている)主撃ヘ複数あり、それらを完全に国家が所有しなければならない、という議論は確かに成り立たない。しかし、国家が有すべき主権の核心は何かという議論をしなければ、サッセンの主張にもかかわらず、サッセンがおそらくは別の意味をこめて書いた「国家がある領域では主権を放棄し、別の領域では主権に固執する」[p129]事態は継続するのである。

 

・ジョン・トムリンソン(片岡信訳)『文化帝国主義』(青土社、1997)《最後の2章を中心に》

 トムリンソンの主張の特色を簡略にいうならば、文化帝国主義を「近代」観念とリンクさせて論じるところにある。二重の意味において、問題は「近代」である。第一に、文化帝国主義を論じるには近代を論じなければならないという意味において。第二に、近代という言葉が意味する曖昧さ[p276. pp280ff]である。そもそも「近代とは何を意味するのか」と問わなければ近代を論ずることが出来ないという意味においてである。

 そのうえで、トムリンソンはバーマンの著作を取り上げて、近代性と発展概念が不可分に結びついていることを論じる。ここでは近代性は文化的に宿命であり一方通行の旅に例えられ、したがって発展概念に積極的な価値が付される。その次にこれと対照的なカストリアディスの論考を取り上げる。カストリアディスによると発展概念はそれ自体が「想像による創造的な企て」であり、ここから新たな近代性批判の道が切り拓かれる。すなわち、文化帝国主義とは強者による弱者侵略ではなく、文化的腐敗の浸透を意味する。近代化によって各国の文化は弁証法的に発展するのではなく、近代的な発展により文化は喪失するのである。

 そして最後にトムリンソンは、そのような近代性の罪悪の責任の所在という問いを提起する。この問いは難問であり、トムリンソンははっきりとした回答はしていない。しかし彼は責任は「状況」にあることを示唆する(同時にカストリアディスに倣い近代の「自律化された制度」に責任があろうことを言うが、これはよくわからない)。

 トムリンソンは幾人もの論説を取り上げ検討するが、実のところ、近代性にめぐる議論は堂々回りの様相を呈しているように思える。なぜなら近代の曖昧さを埋めることは出来ず、また近代を批判する際、その状況に責任を負わすことは鋭い指摘であるが、実は状況は固定化しない。つまり批判の契期となる「状況」もまた曖昧なのである。近代性をめぐる言説の罠は、近代(ならびにその状況)が本質的に曖昧であるにもかかわらず、近代は現に存在することにある。論理的一貫性・厳密性が求められる社会科学的分析においては、この二者の矛盾に、現時点ではやはり対応できないように思える。しかしながらトムリンソンの分析のように、その問いに答えるのが何故困難なのかについて論証することは決して無意味ではない。

 

・押村 高「【アジア的価値】の行方」 天児慧 編著『アジアの21世紀』(紀伊国屋書店、1998)

 当論考では、西洋的価値(論理)のデメリットと対比させる形で「アジア的価値」の可能性が積極的に考察される。当論考の趣旨は思考実験として「アジア的価値」の有効性を列挙することにあるので、記述自体に対する批判は無意味であろう。筆者が西洋的価値のデメリットをその論理的帰結から論じているのに対し、「アジア的価値」の論理的帰結を問わないのは一見アンフェアのように思えるが、ここでは重要ではない。

 むしろ問題なのは、筆者の論に従うならば、アジア的価値が機能するのはアジア地域においてしかないことではなかろうか。なぜなら、トムリンソンにおいても問題だったように、また筆者ももちろん論じているように、西洋的価値の「恐ろしさ」は西洋以外の領域に於いても機能する点にある。西洋の疑似普遍性に対し特殊性で対抗するのはやさしいが、やはりそもそもその特殊性を共有できる前提は何かを問わねばならない。筆者が正しくも当論考をしめくくった問題が重要になってくる点は間違いがなかろう。

 

田中拓道(北海道大学大学院法学研究科博士課程、フランス政治思想史、takjit@juris.hokudai.ac.jp

・・Luc Ferry, Alain Renaut, Philosophie politique 3: des droits de l'homme a l'idee republicaine(フェリー、ルノー『政治哲学3─人間の権利から共和主義の理念へ』), Presses Universitaires de France, 1984

・Blandine Kriegel, Philosophie de la Republique(ブランディン・クリーゲル『共和国の哲学』), Plon, 1998.

 80年ルフォールとゴーシェの論争に端を発し、80年代以降「人間の諸権利(droits de l'homme)」を巡る一連の議論が展開された。これは東欧の民主化運動の影響や、フランスの70年代に見られた「人間」概念への批判に対する応答として、読むこともできる。同時に興味深いのは、全体主義論を背景とすることによって、現代における「政治的なるもの」の位置が争われたという点である。ただしここでは、ルフォールやゴーシェの問題提起を受け、やや通俗的な形で「人権」を巡る思想史的論争を展開した両者の本を採り上げる。

 まずルノー、フェリーは、それぞれパリ4、7大学教授である。70年代に「コレージュ・ドゥ・フィロゾフィー」の設立に携わる。観念論から現代に至るドイツ哲学の導入を中心に、幅広い言論活動を行い、80年代以降人権や「人間(Humanite)」概念の擁護を行う一群の「ネオ・フィロゾーフ」の中に数えられている。クリーゲルはもとフーコーの弟子であり、現在パリ10大学教授、『政治哲学雑誌(Revue Philosophie Politique)』編集責任者である。この3者に共通しているのは、近年に至るフランスの哲学・言論界で活発に発言し、著作を量産している、という点にある。

 フランスに特有の「共和主義」の論理とは何か。この問いを巡って両者は対極的な立場を取る。両者とも「人間の権利」を重視することに違いはないので、その先の相違に着目してみよう。ルノー、フェリーにとって、「人間の権利」の源流は、一方で古代自然権や中世の自然法思想と断絶した近代自然権学派に見出される。すなわちそれは、古代的「自然」概念や中世的「神」から自律した「主体」概念の到来において、哲学的基礎を見出すことになる。他方それはまた、19世紀以降の実証主義、歴史主義とも相容れないものであり、社会状況や時代の違いを超えた、普遍的な理念と見なされなければならない。要するにそれは、古典的ドイツ観念論、特にカント(カントの延長としてのフィヒテ)の中に典型的に見出されるべき理念とされる。

 他方クリーゲルにとって、「人間の権利」は、クリスト教の普遍主義理念の中に根拠を有する。近代自然権学派の主体哲学は、人間の権利と「自然」との関わりを断絶させ、主観主義を導くことによって、歴史主義・実証主義の到来を不可避のものとしてしまった。これに対抗する「人間の権利」の思想は、クリスト教における普遍主義からフランス・ユマニズムを経て、ロック、スピノザといった潮流における「もう一つの近代自然権思想」の中に見出されることになる。

 上記の論争の中には、自然を巡る古代・中世・近代の理解の相違、人間の権利と市民の権利との関係、人間の権利と法の主観化の関係、近代自然権思想内部の相違等、幾つかの重要な論点が提起されていることも確かである。にも関わらず、その論争がどこか空疎であるという印象も否めない。クリーゲルが、ドイツ観念論を忌避するあまり、カント、フィヒテ、ヘーゲルからハイデガーに至るドイツ思想を、自然概念の喪失によるニヒリズムを導いたとして一括し、それら内部の相違に考慮しない論法には、いささか「性急」な印象は否めない。彼女が「人間の権利」の源流と指摘す髀博v想内部の多様性についても、同様のことが言える。他方ルノーやフェリーの側も、ドイツ観念論の伝統を称揚し、そこにあらゆる議論の「統合(synthese)」を見出すところには、思想的問いの「解答」をどこか「外部」に想定しようとする傾向が垣間みえる。このような態度は、一体どこからもたらされたものなのだろうか。

 

・森有正『森有正エッセー集成1 バビロンの流れのほとりにて他』(ちくま文庫、1999年)

 森有正は元東大教授。その職を放棄してパリに20数年住み、「経験」について思索を重ねた哲学者。今回文庫化を機に再び読み返してみて、新たに発見するところが多かった。

 本書には、筆者がパリについた時の記憶から始まり、約8年後の58年までに綴られたエッセーと、57年までの日記が収録されている。その主題を成すのは言うまでもなく「経験」の形成である。「経験」は、純粋な感覚から始まり、言葉による定義を通して結晶化される。感覚なき知識は空疎であり、反省なき直接接触は「経験」とは無関係である。これまでのあらゆる偉大な文化・思想は「経験」を形にしようとする「定義」の努力の歴史に他ならない。

 今回発見したことの一つは、筆者が「近代」という対象とどれ程真剣に向き合っていたか、ということである。これはデカルトをはじめとする近代初期哲学という筆者の専門対象にのみ当てはまるものではない。本書を一貫するのは、解釈学で言うところの「了解(Verstehen)」(古典の偉大な著者に自ら一体化し、その経験を追体験することを通じて、その思想を内面に知肉化する、という方法)である(─ただし筆者はこの言葉を用いていないが)。筆者の「体験」への批判は、「説明(Elklaren)」と「了解」を巡る19世紀以降のドイツ解釈学・歴史学における方法論論争を彷彿とさせる。さらに、多様な経験を統一する主体的「核」の追求、「西洋の」文明理解という問題設定、徹底した自己規律、等々、テクストの端々にその契機を見出すことができる。

 ここで筆者の思想を、主体の想定がもたらす抑圧性や、西洋という対象の実体化という点から批判し、その方法を、現代の哲学的潮流から批判することは、たやすいことである。少なくともそれは、筆者の思索のあり方を理想として無批判に受容すること以上に意味があるとは思えない。このような批判は、筆者の思想形成に向けられた厳しいエートスを引き継ぐどころか、その無限の後退をもたらしてしまうだろう。それでは、いかにして筆者の思索を、我々に検討可能なものとして引き継ぐことができるのか。現代の解釈学と実証主義を巡る議論の中に筆者の方法を位置づけ、「了解」のエートスを何らかの形で引き継ごうとする方向において、さし当たりその手がかりを見出すことができるのではないか。

 

1999年12月分

 

福田 宏 (北海道大学法学部助手、国民形成過程における体操運動)

hfukuda@juris.hokudai.ac.jp http://www.hello.co.jp/~hiroshifukuda/

・ジュリア・クセルゴン. 鹿島 茂訳. 『自由・平等・清潔 --- 入浴の社会史』.(河出書房新社. 1992年)

 1851年にパリで行われた調査では「屈辱的な事実」が明らかとなった。「パリの住民は一年に一度しか風呂に入らない」というのである。1868年の調査でも事態は「好転」していなかった。しかも、それは全く風呂に入らない10万人の人々を除外しての数値である。いうまでもなく19世紀のパリにおいては、大量のお湯を使うというのは非常に贅沢な行為であった。だが、問題の核心はその点ではなかった。当時の人々にとって、服を脱いで体を水に浸すという行為は、娼婦がやるような「いかがわしい振る舞い」のように思えたのである。1907年の時点においても、医者が女性患者に週に一度は入浴するように薦めると、患者は必ずといっていいほど色をなして叫んだ。「いったい私を誰だと思っているんですか」というわけである(pp.278-279)。

 クセルゴンは、こうした19世紀のパリ社会において、清潔さの重要性が「発見」され、美徳とされていく過程を、膨大な資料を駆使しながら鮮やかに描き出している。

 清潔さへの第一の契機は、衛生学の発達であった。18世紀の中頃に腐敗や死のプロセスが解明され、悪臭がこの過程で発生することが確認されると、それらと同じように悪臭を放つ人間の垢は、病気や死を運ぶ媒介と考えられるようになった。そして、19世紀に細菌の存在が発見されると、垢は病原菌を運ぶu病神として一層恐れられるようになった。かくして、垢を落とすことは「望ましい行為」と位置づけられたのである。

 第二は「市民道徳」との結合であった。自分の垢を落としたとしても、周りの人々が不潔なままであれば、疫病から身を守ることは不可能であった。当時の「常識」では、不潔な人間が病原菌を自分の垢と一緒に大気中に放出するために、その他の人間もまた、空気を介して伝染病の危険にさらされるのであった。だが、清潔=善という知識を持ち、実際に、お湯を使って身体をきれいにすることのできる人間は、豊かな市民に限られていた。当然のことながら、共同の水道場を使い、お湯を大量に使うことなど考えもしない貧困層は、不潔なまま取り残されていく。ここに、清潔イデオロギーに階級対立が結びつく余地が生じる。すなわち、清潔な「市民=ブルジョアジー」は善で、不潔なプロレタリアは悪だというイメージである。1870年頃に出された『衛生学事典』では、以下のように書かれている(p.33)。「清潔さの欠如は肉体の純潔にとって害があるばかりでなく、心の純潔にとっても有害である」。こうして、垢だらけの下層階級は、洗浄され、退廃の泥沼から救い出される存在として見られるようになった。

 こうなると、清潔さは社会における一種のコード(規範)として一人歩きを始める。良き「市民」たちは、洗練された紳士・淑女と認められるために、頻繁に入浴し、化粧台の前に長々と座って身繕いをするようになる。彼らが、社交界におけるエチケットを創り出し、そして、それに縛られていくという点は、産業社会における抑制された人間関係の誕生を描いたエリアスの議論を想起させる。一方、下層階級が、学校、軍隊、刑務所、あるいは大衆向けの浴場において、洗浄され、従順な身体として「飼いならされていった」という点は、身体の規律化に権力作用の存在を嗅ぎ取ったフーコーの議論にも通じていよう。

 清潔さへの第三の契機となったのは、強い国民への憧憬であった。特に、普仏戦争(1870年)でフランスが負けてからは、強い国民、そして強い軍隊をつくることは至上命題となる。軍の最高責任者たちは、兵士たちが一週間に一度は入浴するドイツの軍隊を範と仰ぎ、兵営の衛生こそ、国家の戦闘能力を維持する唯一の方法と結論づけたのであった(p.136)。軍隊にとって重要なのは「一に規律、二に衛生」であった。そして、国民教育の土台となる小学校では、1880年頃から衛生教育が導入されている。「清潔好きな家の子供は不良化したりせず、かならず良い国民になるでしょう」(p.130)というのがその理由であった。また、家庭における身体衛生の徹底をはかるために、週一回、母親たちを学校に呼び寄せ、彼女たちが見ている前で子どもたちの衛生検査を行ってもいる。

 第四の契機として挙げられるのは、霊肉二元論というキリスト教道徳からの解放である。フランスで清潔に対する配慮が宗教的な罪悪感なしに受け入れられるようになったのは、19世紀に入ってからであった。それまでのカトリック教会においては、救済の対象となる魂と世俗的な肉体がはっきりと区別されており、自らの肉体に視線を向けたり、手を触れたりする行為が堅く禁じられていたのである。ところが、1880年代においては、聖書は次のように解釈されていたのであった。「モーゼは自らの民のために清潔の心得を数多く残され」、「その教えが守られるように、体の不潔な者は魂も不純であるようにされた」(p.30)。こうして、石鹸を使って体を洗うという行為に教会からお墨付きが与えられたのである。

 19世紀のパリにおいては清潔イデオロギーが盛んに唱えられたにもかかわらず、少なくとも20世紀初頭の段階では、社会の隅々まで入浴の習慣が浸透したわけではない。だが、ここで重要なのは、社会の何パーセントの人間が風呂に入るようになったかという点ではなく、清潔を善とする言説が主流になったというメンタリティーの変化である。この変化はおそらく、社会ダーウィニズムと結びついて1880年代に登場した優生学や1900年頃に登場した遺伝学にもつながっていったのであろう。「自由・平等・友愛」の陰で発展した衛生観念が、戦間期には偏狂的な統制思想へと結実していったとすれば、19世紀末に現れた社会ダーウィニズムに対して、本書で扱われた清潔イデオロギーはどのように作用したのであろうか? 残念ながら、本書ではその点に関する言及はされていないが、それは欲張りというものであろう。

 以上。

 

田中拓道(北海道大学大学院法学研究科博士課程、フランス政治思想史、takjit@juris.hokudai.ac.jp

・Michel Borgetto, La notion de fraternite en droit publique francais : le passe, le present et l'avenir de la solidarite (ボルジェト『フランス公法における友愛の概念─連帯の過去・現在・未来』), Paris : Librairie generale de droit et de jurisprudence, 1993.

 現代社会において、人と人との関係性を積極的に生み出す規範はいかなる位置にありうるのか。本書は革命期から現代における、「友愛」という概念の公法における位置を探ることによって、その歴史的変遷と、現代公法における意義を明らかにしようとした研究である。

 著者のボルジェトは、現在ポワティエ大学教授。本書は、1991年に提出され賞(Prix de these)を受賞した博士論文がもとになっている。実際700頁近くに及ぶ浩瀚な分量、議事録から憲法草案に至る数百冊の資料を網羅した内容、数千に及ぶ脚注に逐一典拠を引用した記述、いずれにおいても、歴史的な実証研究として見た場合、模範的な労作と評することができる。

 ボルジェトによれば、「友愛」は次のような三つの時期に区分される歴史を辿った。第一に、革命期においてはじめて、この概念はキリスト教的な意味や私的な徳一般という意味を離れ、君主制に対抗し平等化を求める概念として、政治化した意味を帯びる。憲法の論議に大きな影響を与え、一部は実定化されたこの概念は、この時期に主要な原理の一つとしての役割を果たした。しかし法的には普遍主義的含意を有していたものの、その適用の過程で愛国・ネイションの概念と結びつくことによって、実際には排外的な概念として機能することとなった、という。

 第二期は、1830年から48年革命に至る時期である。1794年以降の政治状況とテロルの記憶によって、長く忘れ去られたこの概念は、1830年以降の共和主義者、社会主義者、宗教的言説の中で復権する。ここでの文脈は、自由主義的な最小権利論に対し、国家による公的扶助を要請することにあった。しかし私的慈善としての意味を脱しきれず、明確な限界を持たなかったこの概念は、社会主義者たちの主張にもかかわらず、実際に公法に具現化される場面で大きく後退し、私的扶助の補完としての公的介入を導くにとどまった。

 第三に、第二帝政の到来とともに再び沈滞したこの概念は、第三共和制において論理的な実現を見る。しかしここで法的な概念として用いられたのは「友愛」ではなく、40年代以降徐々に「友愛」に取って代わった「連帯」の概念だった。「連帯」は、生理学・統計学・物理学等の発展を背景に、情緒的関係よりも人々の機能的結合という「事実」として認識される。より法的概念として適合的なこの概念は、19世紀末に連帯主義運動として政治の舞台を席巻し、今世紀にも社会保障や保険のシステムに具体化され、今日に至ることになる。

 ボルジェトの結論は、外国人や貧困層の排除の問題に直面する現代社会において、再び「友愛」の持つより豊かな意味を見直し、これを原理として再導入すべきである、ということである。

 さて、彼の研究の実証的意義は疑うべくもない。ただ残念なことは、「友愛」「連帯」という多義的な概念のテクストにおける使用を追うのみで、概念史の哲学的考察が深められていない点である。例えば、「友愛」から「連帯」への変遷を、単に情緒から機能的関係への変化ととらえる場合、「連帯」がなお道徳的語彙によって語られなければならなかった理由は、どう説明されるのだろうか。「連帯」の発展による国家の社会への介入は、単に「政治的なものによる社会の包摂」ととらえて良いのだろうか。「友愛」が私的概念としての意味を抜けきれなかったとするなら、「連帯」は私的慈善と公的権利との区分が成り立ち得なくなり、貧困が「構造」の問題と認識された状況に対応している。このような概念的変遷は、むしろ1840年以降「政治的なもの」を巡る語彙や言説が、大きく転換したことを示している。現代における「友愛」の復権の主張も、このような文脈において、その有効性が問われなければならないだろう。